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ゴネ得との付き合い方の一つ

最近いわゆる「ゴネ得」というものに出会うことがあった。

悪質クレーマーといった感じだ。

自分はその人とのコミュニケーションに非常に不快感を感じ、苛立ちを持っていた。それが何なのか、考え続けた結果いろいろと考えが浮かび、一言にまとめると「ゴネ得」であった。ゴネ得への不快感だった。自分の相手に感じた不快感を拙くも直接的に言語化するとこんな感じだ

①不満を言うだけ言って、自分で解決しようとする気は全くない

②不満を言えば誰かがやってくれるものと思っている。相手方の組織が行うのが義務と思っている(実際には義務ではないが、相手がそれが義務でないことを決して理解しない・納得しない)

③不満を解決してくれると思っている人の工数を全く考えず、理想論を掲げる。具体的な手法は一切考えずに丸投げで、解決は相手の義務と考えている。(義務ではない)

④正当性や妥当性の判断に必要とする、客観的データや他の判例等は「他は他、うちはうち」と言って要求はひたすら主観的であり、際限がない。それらのデータを取り合わないため、落としどころのベンチマークすら存在しない。

➄永遠に際限なく要求を続けながら、自分は決して要求を達成するための活動を行わず、要求が達成されていればラッキー、されてなければ被害者面、という態度が見える。そもそも要求が達成されても更なる要求を延々と出すため、「ラッキー」等表にも出さないが。

こういう感じだ。書いててイライラしてきた。これをゴネ得と感じた。ゴネ得のWebil辞書の定義は以下だった。

『不平や自分勝手な言い分を言うだけ言って相手に負担をかけ、結果として利益を得ること。 ゴネることでをすること。』

まさしく自分の不平不満、主観的な勝手な言い分だけを、相手の負担も考えずに言い、あわよくば利益を得ようという魂胆だ。

自分はこれにとてつもない不快感を覚えた。ただこれについてちょっと考えてみた。

 

①ゴネ得との和解が不可能が理由

自分は議論・コミュニケーションとは「常にお互いの意見をぶつけて相互理解しながら、現実的な落としどころを探り合い、納得しながら互いの利益を最大化すること」と思ってきた。ただ、ゴネ得はそうではないのだ。

ゴネ得はひたすら相手に要求を続けて利益を引き出す。彼らは落としどころ・和解・理解・納得ができない。なぜならそれらをした瞬間、自分の受け取る利益がそこで止まってしまうからだ。勿論、最終的に暴力や強制力といった力を背景に持つ組織との議論では、永遠に利益を要求し続けても強制力の執行により、ゴネ得する彼らにとっては全く利益を得られない結果になるため、ある程度の引き際を持つ。ただ、それの天井はそもそも正当性、妥当性を考えると非常に高い。彼らにとってゴネ得は値引きと同じで、「本来は〇〇分のところを、ゴネただけで○○になった!」という考えなので、非常に高いのは必然だ。

このように、彼らは利益のために決して和解・理解・納得・落としどころが構造上困難だ。よって、自分が元々考えていた、「相互理解を経て、お互い納得のいくように利益の最大化を図る」ことは彼らには通じないのだ。彼らにとって相手の利益などどうでもよく、相互理解も納得も、自分の利益を減らす障害でしかないのだ。

 

②ゴネ得の必然性

このゴネ得の特性だが、ジョン・フォン・ノイマンが作ったゲーム理論での「囚人のジレンマ」を思い出した。囚人のジレンマはググれば詳細出てくるが、要は「個人の利益を最大化する個人の行動と、個人を含む全員の利益を最大化する個人の行動は、同一とは限らない」というものだ。AさんとBさんの得る総利益を最大化する行動と、Aさんが得る総利益を最大化する行動は異なる場合があるということだ。全体に際限がある、同じパイを分け合うような場合であれば、Aさんの利益を大きくしてもBさんの利益が減るシーソーゲームなのでどうやっても総利益は同じになり、全体に際限がない場合は、Aさんの利益が増えるほど、Bさんの利益とは独立のため総利益は増加する。このように考えると、個人の利益の最適化は全体の利益の最適化に悪影響を与えないため、直感的には反するように感じる人もいるかもだが(私もそうだ)、それは問題設定次第でそれは変わるということだ。経済学ではそれまで私のような考えが主だったようで、ジョン・フォン・ノイマンゲーム理論により、個の最適行動が全体の最適行動と異なるという具体例を出し、経済学の考え方が変わったらしい(知らんけど)。

さて、ゴネ得はまさしくこれと思った。相手の工数など考えずに要求を吹っ掛け、利益が出たらラッキー、利益が出なくても自分は何も痛まない、というゴネ得行動はまさしく個の最適行動であり、全体の最適行動と程遠いい。経済学的?観点で考えると、個の最適行動たるゴネ得を行うのはある種必然といえる。

ただ、ゴネ得する人間と長く付き合いたい人などいるわけがなく(それはゴネ得する人が自分の工数を不要に増やし、自分の利益を増やさない存在のため、己の利益を最適化するために避けるのは必然だ)、長期的な視野を入れるとゴネ得は個の最適行動とは言い難いことは留意される。ただ、一部の感性の持ち主や考え方の人は長期的視点を持たない、もしくは人間関係を焼畑農業するため、短期的な視野での最適行動であるゴネ得をするものと思われる。もしくは、強制的に人間関係を維持される環境下では、その環境を利用して行っていると思われる。

このように、「ある考え方をした場合、ゴネ得は一種の最適行動」ということだ。

 

③ゴネ得の世界

さて、ゴネ得は嫌なことだと思うが、世界ではそれが沢山起きていると思われることに気づいた。おそらく、多数決を取れば、ゴネ得をしないほうが良いという感性を持つのが少数派だと思った(本当かどうかはわからんけど)。これは批判的な意味ではない。「ゴネ得はして当たり前で、権利はそうやって勝ち取っていくもので、行儀よく相手のお話なんか聞いていたら権利なんて失ってしまう」という生存競争的価値観こそが多数派であるのではないか、ということだ。ゴネ得への不快感など、おそらく生まれた時から生存権が得られ、自分で頑張らなくとも権利が得られてきた一部日本人の潔癖感覚なのかもしれない。もしくは、日本は「和を重んじる」というように、全体最適を至上の目的とするような考え方が昔からあるのかもしれない。逆にアメリカは起訴の国なんて言われるほどだが、歴史的にも「権利は自分で勝ち取るもの」という考えがあるように感じる。

これらのゴネ得は国家の政府としても行うことがあるように見える。日本と中国の歴史的問題(領土)、日本と韓国の歴史的問題、トルコとアルメニアの歴史的問題もそうと捉えることもできる。本当の歴史的真実の探求よりも、個(自分の国)の利益最適化のために行動しているようだと捉えるということだ。人類が多種族との生存競争を生き延びた後、同種族社会内での生存競争が、権利・利益の奪い合いであり、それのある視点から見た最適行動がゴネ得なのだ。なお、先に書いた通り、短期的視点で見ればゴネ得が最適行動だが、長期的視点で見れば、ゴネ得してくる相手と長い間関係を持っていたいなどと思わないため、貿易等なんらかの強味がない国(相手にとってゴネ得相手との関係を絶つことが最適行動になる国)は、その行動が取れない。相手のゴネ得を絶つ方法は、相手との交流を絶つことがゴネ得された側の最適行動になるよう手回しすることだろう。

 

④ゴネ得と今後

さて、ゴネ得ということだが、今後のビジネスかつ個人の行動という視点から考えた場合、このゴネ得というものは難しいものとなっていくと思う。というのも、世界はインターネットで繋がり、様々なものにアクセスが容易となり、ものすごい速度で進化していっている。多くの天才たちが協力し合い、新しい世界を作り出していっている。このような場で声をかけられた際にゴネ得などしたらどうなるか、「別の人を探す」で終わりである。また、自分がより良い成果を出すために人と交渉する際、それをへたにゴネ得しようとし交渉に失敗したとしよう、ライバルたちはその間に多少の自分の取り分を減らしつつ、個人ではたどり着けない高みへ登っていき、取り分比率は低いかもしれないがパイ自体が大きくなってより大きな利益を手にするだろう。自分の権利は主張して確保しなければならないが、Weblio辞書にあるような「相手に負担をかける」ような場合はそうなると思われる。ビジネスは運ゲーなところがあるので、期待値的な行動として、という話だが。

一般的な言葉として「協力し合うことが大切」というが、今まさしく「協力し合えば勝てるのであれば、当たり前のように協力して勝つ」という世界になっていくと思うので、協力をし合わないゴネ得者、もしくはそれを内包する組織(とそれに属する人)は生き残ることが難しいと思われる。一応少なくとも日本では行政がしっかりしているので、それで個人が飢え死にということはないと思われるが。

結論として、個人レベルにおけるビジネスの視点において、成功期待値を最大化する試みの選択肢として、ゴネ得が有効ではない場面が今後増えていくのではないかと思われる。(クレーマーレベルの短期的かつ独立的個人活動なら引き続きゴネ得が有効と思われる)

 

➄ゴネ得の対策

さて、ここまで来てゴネ得の対策だ。そもそも対策する意味があるかどうかだが、ゴネ得を不快と感じ、本人に何らかのマイナス効果があるのであれば、それを取り除く取り組みもまた必要と思われる。その手法としての対策だ。③&④にも書いた通り、ゴネ得の対策は「ゴネ得相手との関係を絶つこと」で、①&②で書いた通り、構造上これしか対策手法はない。①&②で書いた通り、ゴネ得は個人の利益を最適化するための行動で合って、その特性から和解・相互理解・納得はできない。そのため、遮断しか方法がない。むしろ、ゴネ得は関係者にマイナスをもたらすため、遮断自体が得策と言える。

ゴネ得が不快だから遮断という対策、という書いたが、全体の利益の最大化を考えなくては組織の生き残りが厳しいとも考えられる時代においては、己の利益の最大化のために積極的な遮断も必要かもしれない。

では遮断できない場合はどうするか?遮断できない理由から対策するしかないだろう。何らかの構造上、遮断ができない、というか遮断という手法に関連し必ず他の不利益が発生する場合は、自分の損失を最小化するために受け入れるしかないだろう。そして、遮断できなくともできる限り相手にしないように努める。どれだけゴネ得相手に時間を割いても、相互理解による納得は構造上不可能だし、あなたに利益が出ることは構造上あり得ない。相手にすればするほど工数を失うだけだ。

受け入れる際だが、「相手はこうして主張しないと権利を得られてこなかった人なんだろう」と思うと少し可哀そうな気がして精神的な不快感が緩和されるかもしれない。ゴネ得は全体最適化とは程遠いい行動で、信頼関係を破壊する行為となる場合もある。そういったゴネ得の結果、信頼関係を失い、それに伴い人に蔑ろにされ、「人間扱いされる」という言葉にされない権利すらを失い、それを挽回するために可能な限り権利を得ようと足掻いてゴネ得しているという構造も考えられる。そうなるとなお哀れだ。

ゴネ得対策:ゴネ得している人とは関係を絶つ。絶てない場合は相手の事情を察して可哀そうな人として同情をしつつ、できる限り関わらないように接する。

ゴネ得している人へ:まず人を信じて、全体の利益の事を考えてみた方が良いかもしれない。それを行動に移し続ければ、あなたは相手にとって有用な存在になり、自然と権利が与えられるはずだ。搾取されないようにうまいこと少しずつ権利を主張しよう。千里の道も一歩からだ。

 

おまけ

自分は議論・コミュニケーションとは「常にお互いの意見をぶつけて相互理解しながら、現実的な落としどころを探り合い、納得しながら互いの利益を最大化すること」と思ってきた。この考えのため、ディベートは議論として最適ではないと思っていた。ディベートのゴールはYes or Noで、落としどころの模索ではないからだ。ただ、今回考えてみて、ディベートが「権利を主張して得るもの」という考えを背景に濃く持つというアメリカで生まれたと考えて、考えが思い立った。彼らにとっては「如何にして自分の権利をYesとするか」が非常に重要な文化なのだろう。だからデモ等も盛んだと思える。逆に「全体の最適化、落としどころ、納得」は「和を以て貴しとなす」日本文化といえるだろう。文化なので、どちらが正などというものではない。ただ、より良いものを作るのであれば、落としどころを模索する議論が有用で、奴隷解放等の現在(当時)の常識/前例/慣習の破壊のためにはディベートやデモ活動といった議論が有用だろう。議論の最適とは一つではなく、状況と目的に応じた最適手法が複数あるということだ。