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課題解決手法備忘録

忘れないようにとりあえずまとめる

詳細は直接的な課題解決方法・プロジェクトの進め方・頭の整理の仕方・効果的なアイディアの共有手法・分析手法とごっちゃになっているが、課題解決の際はどのアプローチをしてどのようなアウトプットを出す見積りかによっての使い分けと思うので、一気にまとめる。これらの関連付け、使い分け、併用が重要と思う。目的と状況に合致するとして、アジャイル開発の特色を強めて進め、その過程の一部でデザインシンキングを取り入れ、ある工程での状況整理や顧客とのコミュニケーションでロジカルシンキングを使い、別のある工程の技術的な課題に対しては分散分析で制御をするなど。

 

プロジェクトの進め方:ウォーターフォール型とアジャイル

これらはあくまでプロジェクトの進め方だが。

ウォーターフォールは一本の流れに沿って進める形。スタートが企画で、ゴールが完成になる。順番にバトンタッチが進んでいき、プロジェクトが完遂されるというもの。ウォーターフォール側のメリットはやり方が定型に近く、関連者が多く、工程が多くても連携がとりやすい。これは目標性能や顧客価値が比較的はっきりしている場合に特に有効。ただしそれを見誤ると梯子を外される形となり時間をかけたのにどうしようもないものが仕上がる。

アジャイルは企画から完成・テストを何度も繰り返し進めるやり方。顧客自身が何が欲しいかよくわかっていなかったり、目標性能がはっきりしない場合に、顧客とテストしながら進めることで、顧客価値に合ったものができるという考えになる。メリットとして一品一葉的なものに対応できたり、顧客の真の要望がくみ取れ大きなリターンが得られる可能性がある。一方、一緒にテストする顧客がいないとどうしようもないのでそこの確保から必要な点が大変。また何度も繰り返しを行うため進め方の早さが重要で関係者を少なく絞る必要があったり、承認等の手続きや過度な振り返り・深堀りがそのままタイムロスになるのでその取捨選択が難しい。

スクラムという考えもあるが、これは上記のどちらか、というものではなく「川上の工程に当たる人が、川下の工程に当たる人と共に開発する」という考えが近い。川上の人は川下の人が困った際に一緒に解決策を考えて、川上からスクラムを組みながら開発工程が川下に流れていくようなやり方という理解。

 

課題解決:デザインシンキング

デザインシンキングは、共感・定義・概念化・試作・テストの5段階で表現される。進め方として「試作とテストを何度も繰り返し、顧客の真の価値を探る、顧客と開発を進める」という側面はアジャイル型に近い。

まず共感で、顧客対象を感情的要因含めて深く理解する。単なる情報ではなく、可能であれば体験として理解することが好ましい。

次に定義で、解くに値する問題を定義する。共感で得た内容を元に、真の課題の理解を、ここでする必要がある。ここがずれていると、ドリルのためのドリル作りになる。砂漠で遭難して干からびかけている人にペットボトルを渡して帰ることになる(「水が欲しいんだろ?はい水、じゃあさよなら」とサルベージしないで帰ってくる)。

そして概念化で、アイディアやアプローチを模索する。

試作で、どんどん試作品を作っていく。とりあえず形にする。そこで自分の課題に関する理解や印象、チームメンバーの課題に関する理解や印象が顕在化され、概念化や定義の深堀が加速される面もある。また、実行化に向けた現実的障壁も見えてきやすくなる。

テストで、試作品をユーザーと共に試し、顧客価値の深堀り、アイディアのブラッシュアップを行う。ここでも概念化や定義の深堀りが加速されつつ、アイディアの精度向上が行われる。

これらの工程は厳密に順番通りである必要はなく、これら工程が意味するところの本質的理解が最重要である(よくわかってないならとりあえず最初から順番通りにやるのが好ましいが)。

 

頭の整理・アイディア共有手法:ロジカルシンキング

基本的なフレームワークが、なぜなぜ分析→因果関係図(問題構造図)→問題(原因)のロジックツリーになる。他にも人間関係図やパレート図、特性要因図もある。後者二つはSQCで書く。

ロジカルシンキングは、頭の整理に使用したり、他者への説明・説得に利用するツールと言う側面が強く、進め方が恣意的であったり明らかな主観性をもっている場合があり、それを許容すると認識している。自分の中でなんとなく確信があって、それをベースに問題構造図を整理していった結果、新しい事実がわかる、という使い方も重要。また、自分が出したアイディアが「これらの情報を元にこういった分析した上で出された結論ですよ」と他者に効率的に伝えるための使い方があるので、恣意的な面も入りやすい。

まず、なぜなぜ分析等から原因を深堀していく。デザインシンキングでは共感の工程に近いが、あくまで顧客の理解というより理由の深堀という側面に近い。顧客の理解は行動理由の深堀りという側面があるのでそこは近いが、デザインシンキングは人、なぜなぜ分析はモノ・事実にフォーカスしている認識。

そこから問題構造図を作る。因果関係図を作ると問題構造図になりやすい。様々な事象・現象・物事の関係がわかるようになる。これも原因究明手法の一つ。

問題(原因)のロジックツリーでは、状況のリスト化・階層化による可視化という意味合いが強い。多くの場合、事実がきれいなツリーになることのほうが難しいため恣意的になりやすい。例えば、コウモリ問題が発生した際に、なぜそちらに分類したのか?という根拠がやむを得ず曖昧な状態で作成することもあるが、他者への考え方・アイディアの共有という側面があるため、恣意性をなくすことよりも恣意性含めて明確に示すことが重要である。

人間関係図では、関連者の関係の明確化・可視化という意味合いが強い。どのような軸でまとめ、どのような情報を記載するかどうかに恣意性が入るが、ロジックツリー同様に恣意性の根拠を含めて明確に示すことが重要という理解。

 

分析手法:SCQ(統計的品質管理手法)

課題解決の中でもエンジニア色がかなり強い。パレート図や特性要因図、分散分析、実験計画法などがこれにあたる。

パレート図は結果形の存在比率を見ることで、解くべき課題を明確にすることができる。デザインシンキングの「定義」の特性に近い

特性要因図は、結果を生む要因をリスト化・可視化することに意味がある。意味合いとしてはロジカルシンキングのロジックツリーに近い。

分散分析や実験計画法は、物事が正規分布することを仮定して、その数学的特性(主に分散)を利用して要因の寄与率を定量的に見積もる方法(要確認)。あくまで仮定の上で計算結果のため、具体的(定量的)な結果だからといってそれを盲目的に信じることは危険だが、カオスに近い複雑な挙動を予測する上でのメカニズム的な解釈を助ける手法として強力。人工知能的な計算方法も道具・使い方として類似する。

 

フレームワークいろいろ

3Cとか4Mとか4PとかSWOTとか。基本的に状況をある観方で切り分けた方が物事が分かりやすくなるよね、という発想。頭の整理やアイディア共有手法という面が強いので、ロジカルシンキングの具体的手法の一部とも捉えられる。

フレームワークのほとんどはパイの切り方の話で、パイの本質が変わることではない。どのような切り方をしても、真相が明確な場合は同じ地点にたどり着くことが多いので、どのフレームワークを使用するかに頭をひねる必要性は低い、というか悩んだ場合は片っ端から試した方が合理的。

3Cは自社・競合他社・顧客で分けて考えみようという話(Company, Competitor, Customer)。状況を網羅しつつ分析しやすいように切り分ける際の一つのやり方。3Cそれぞれで分析しつつそれぞれの関係性をみてみようというやり方が多い。

4Mはヒト・材料・機械・方法で分けて考えてみようという話(Man, Material, Mechine, Method)。災害分析だとメディアのMが入ったり、管理のM(Management)が入ったりする。

4Pは製品・価格・流通・プロモーションに分けて考えてみようという話(Product, Price, Place, Promotion)。

SWOTは強み・弱み・チャンス・脅威に分けて考えてみようという話(Strengths, Weaknesses, Opportunities, Threats)。チャンスと脅威は、状況を示している場合もあるし(自分の内の強みと弱み、自分の外のチャンスと脅威という分け方)、それぞれ他者の強み・弱みになっていることもある。(自分の内の強みと弱み、ライバルの強みと弱みという分け方)

 

集中とわっしょいキャッチ

どこか鬱々とした気分が続く連日の中、久しぶりにコーヒーを二杯飲んでカフェインで覚醒した感覚があるので、それを忘れないように備忘録として書く。

 

「集中モード」と「ボーっとモード」

久しぶりにカフェインで覚醒している感じがある。行動的で何かに手を付けやすく、集中している感じがある。ただ、実際に集中しているかというと微妙で、本を読んでも眼が文字の上を滑り何度か読み直したり、内容を頭に中で整理しようとしても今一できなかったりする。

しかしこの「覚醒している感じ」は実際に覚醒している時、うまく集中できている時に近いように感じている。今後カフェインを取らずとも、この感覚を自ら作ることができれば、うまく集中モードを作れるように考えて、この備忘録に残した。

感覚としては脳の前のほうから上のほうにかけてびりびりしている感じだ。ビーっと眼が開きやすい。

一方、ここ最近ずっと感じていた感覚は、脳の後ろのほうが重くてじんじんしている感じだった。眼の下が少し重く、それにより瞼が少し重い感じ。

今回、鬱々とした感覚が長く続いてからカフェインで覚醒したことで、なんとなくこの集中モードとボーっとモードの比較を明確にできたような気がする。

ここでこの感覚を元に適当な仮説を考えて応用してみる。

 

交感神経・副交感神経と各モードの関連付け

自律神経は交感神経と副交感神経で構成されていて、交感神経は優位になると覚醒・戦闘態勢になり、副交感神経は優位になるとリラックス・睡眠態勢になる、というのが一般的理解と思う。自律神経そのものは心臓を動かすなど、脳の意識的部分に指示されなくても制御される自律的な制御系統という理解をしている。

脳の活動を考えた場合、思考などといった意識的部分がある一方、感情等の無意識的かつ分泌物系の要素も欠かせない。後者は前者に多大に影響を与える、というかどちらが影響し合っているものと理解している。そして後者の分泌物系は自律神経に指示されるものと考える。交感神経が優位の場合は興奮物質が多大に出され、副交感神経が優位の場合はリラックス物質が多大に出されるという考えだ。重要な事として、どちらが優位になったとしても、興奮物質やリラックス物質等の物質が完全になくなる瞬間はなく、常に両方存在し、そのバランスが変わるだけというイメージをしている(医学的なデータは知らん)。

ここで、集中モードは交感神経が優位な状態で、ボーっとモードが副交感神経が優位な状態と考える。ただしここで重要なことは、交感神経が優位であれば必ず集中モードになるとは限らないし、副交感神経が優位であれば必ずボーっとモードになるとは限らないと考える。あくまで脳内物質の存在比率のようなバランスとして、「集中モード」となる配分状態があり、それは交感神経が優位な状態と言う事ができる、という感覚がある。「ボーっとモード」に関しても同様。

つまり恣意的に集中モードに入るためには、ただ交感神経が優位な状態にすればいいという訳ではないと考える。副交感神経から出されるもののバランスも重要のように考える。これは各成分の存在比率のバランス・状態なので、交感神経がどれだけ優位か(副交感神経がどれだけ劣位か)のような一次元的な考えでは表現できない。「交感神経優位率○○%の時に集中モードになり、それ以上にもそれ以下にもならないように制御する」という訳ではない。交感神経優位性が集中モードと同じでも、脳内物質のバランスが違えば、集中モードにはならないと考える。あくまで脳内物質の存在比率というか「状態」で、自律神経の優位性は結果形と考えている。

 

わっしょいキャッチ

ある人の考えに「わっしょいキャッチ」というものがある。脳の中のわっしょいしている部分を見つけて、それをキャッチして離さないで維持し、そのわっしょいの拡大を待つ(もしくは拡散を支援する)ことで脳全体でわっしょいできるようにするというテクニックだ(たしか)。自分の感覚的にこのわっしょいキャッチはわかる。

「集中モード」と「ボーっとモード」が脳内物質のある存在比率・状態であるときのモードであるとして、その状態の時の感覚を覚えておき、わっしょいキャッチすることができれば、意識的に集中モードになることが可能だろう、というのが今の考えだ。

脳科学的にどこまであっているかわからないが、感覚的にそうなのでできるのではないかと思う。おそらく過程の理論は大幅に間違っていようと結果は同じになるのではないか。理論はオカルトでも結果的にペニシリン摂取したら肺炎は治るだろう的な。

 

応用・使い方

今後は遊んだり仕事したりする際は、この集中モードのわっしょいキャッチをチャレンジしてみようと思う。集中モードの感覚が分からなくなったら、多少一時的に思考がスクランブルエッグになる覚悟でカフェインをきめて感覚を探しに行こう。

そして寝るときはボーっとモードをチャレンジしてみようと思う。ボーっとモードは動画を流しながら作業等しているとすぐなる感覚があるので、そんなに見失わないと思う。

集中モードのわっしょいキャッチの最初の鬼門は寝起きかな。。。

あとずーっと集中モードだと、連日テレワークで夜遅くまで残業してパソコン落とすのとほぼ同時に就寝するあの感覚を思い出すからほどほどがいいかもしれない。あとなんか頭皮?の血の巡りが悪くなってる気もする。セルフヘッドスパじゃないけど、頭の物理的なマッサージもしつつ、定期的なオンオフで脳や神経の負荷を低減した方がいいかも。

集中とわっしょいキャッチ

どこか鬱々とした気分が続く連日の中、久しぶりにコーヒーを二杯飲んでカフェインで覚醒した感覚があるので、それを忘れないように備忘録として書く。

 

「集中モード」と「ボーっとモード」

久しぶりにカフェインで覚醒している感じがある。行動的で何かに手を付けやすく、集中している感じがある。ただ、実際に集中しているかというと微妙で、本を読んでも眼が文字の上を滑り何度か読み直したり、内容を頭に中で整理しようとしても今一できなかったりする。

しかしこの「覚醒している感じ」は実際に覚醒している時、うまく集中できている時に近いように感じている。今後カフェインを取らずとも、この感覚を自ら作ることができれば、うまく集中モードを作れるように考えて、この備忘録に残した。

感覚としては脳の前のほうから上のほうにかけてびりびりしている感じだ。ビーっと眼が開きやすい。

一方、ここ最近ずっと感じていた感覚は、脳の後ろのほうが重くてじんじんしている感じだった。眼の下が少し重く、それにより瞼が少し重い感じ。

今回、鬱々とした感覚が長く続いてからカフェインで覚醒したことで、なんとなくこの集中モードとボーっとモードの比較を明確にできたような気がする。

ここでこの感覚を元に適当な仮説を考えて応用してみる。

 

交感神経・副交感神経と各モードの関連付け

自律神経は交感神経と副交感神経で構成されていて、交感神経は優位になると覚醒・戦闘態勢になり、副交感神経は優位になるとリラックス・睡眠態勢になる、というのが一般的理解と思う。自律神経そのものは心臓を動かすなど、脳の意識的部分に指示されなくても制御される自律的な制御系統という理解をしている。

脳の活動を考えた場合、思考などといった意識的部分がある一方、感情等の無意識的かつ分泌物系の要素も欠かせない。後者は前者に多大に影響を与える、というかどちらが影響し合っているものと理解している。そして後者の分泌物系は自律神経に指示されるものと考える。交感神経が優位の場合は興奮物質が多大に出され、副交感神経が優位の場合はリラックス物質が多大に出されるという考えだ。重要な事として、どちらが優位になったとしても、興奮物質やリラックス物質等の物質が完全になくなる瞬間はなく、常に両方存在し、そのバランスが変わるだけというイメージをしている(医学的なデータは知らん)。

ここで、集中モードは交感神経が優位な状態で、ボーっとモードが副交感神経が優位な状態と考える。ただしここで重要なことは、交感神経が優位であれば必ず集中モードになるとは限らないし、副交感神経が優位であれば必ずボーっとモードになるとは限らないと考える。あくまで脳内物質の存在比率のようなバランスとして、「集中モード」となる配分状態があり、それは交感神経が優位な状態と言う事ができる、という感覚がある。「ボーっとモード」に関しても同様。

つまり恣意的に集中モードに入るためには、ただ交感神経が優位な状態にすればいいという訳ではないと考える。副交感神経から出されるもののバランスも重要のように考える。これは各成分の存在比率のバランス・状態なので、交感神経がどれだけ優位か(副交感神経がどれだけ劣位か)のような一次元的な考えでは表現できない。「交感神経優位率○○%の時に集中モードになり、それ以上にもそれ以下にもならないように制御する」という訳ではない。交感神経優位性が集中モードと同じでも、脳内物質のバランスが違えば、集中モードにはならないと考える。あくまで脳内物質の存在比率というか「状態」で、自律神経の優位性は結果形と考えている。

 

わっしょいキャッチ

ある人の考えに「わっしょいキャッチ」というものがある。脳の中のわっしょいしている部分を見つけて、それをキャッチして離さないで維持し、そのわっしょいの拡大を待つ(もしくは拡散を支援する)ことで脳全体でわっしょいできるようにするというテクニックだ(たしか)。自分の感覚的にこのわっしょいキャッチはわかる。

「集中モード」と「ボーっとモード」が脳内物質のある存在比率・状態であるときのモードであるとして、その状態の時の感覚を覚えておき、わっしょいキャッチすることができれば、意識的に集中モードになることが可能だろう、というのが今の考えだ。

脳科学的にどこまであっているかわからないが、感覚的にそうなのでできるのではないかと思う。おそらく過程の理論は大幅に間違っていようと結果は同じになるのではないか。理論はオカルトでも結果的にペニシリン摂取したら肺炎は治るだろう的な。

 

応用・使い方

今後は遊んだり仕事したりする際は、この集中モードのわっしょいキャッチをチャレンジしてみようと思う。集中モードの感覚が分からなくなったら、多少一時的に思考がスクランブルエッグになる覚悟でカフェインをきめて感覚を探しに行こう。

そして寝るときはボーっとモードをチャレンジしてみようと思う。ボーっとモードは動画を流しながら作業等しているとすぐなる感覚があるので、そんなに見失わないと思う。

集中モードのわっしょいキャッチの最初の鬼門は寝起きかな。。。

あとずーっと集中モードだと、連日テレワークで夜遅くまで残業してパソコン落とすのとほぼ同時に就寝するあの感覚を思い出すからほどほどがいいかもしれない。定期的なオンオフで脳や神経の負荷を低減した方がいいのかもしれない。

集中とわっしょいキャッチ

どこか鬱々とした気分が続く連日の中、久しぶりにコーヒーを二杯飲んでカフェインで覚醒した感覚があるので、それを忘れないように備忘録として書く。

 

「集中モード」と「ボーっとモード」

久しぶりにカフェインで覚醒している感じがある。行動的で何かに手を付けやすく、集中している感じがある。ただ、実際に集中しているかというと微妙で、本を読んでも眼が文字の上を滑り何度か読み直したり、内容を頭に中で整理しようとしても今一できなかったりする。

しかしこの「覚醒している感じ」は実際に覚醒している時、うまく集中できている時に近いように感じている。今後カフェインを取らずとも、この感覚を自ら作ることができれば、うまく集中モードを作れるように考えて、この備忘録に残した。

感覚としては脳の前のほうから上のほうにかけてびりびりしている感じだ。ビーっと眼が開きやすい。

一方、ここ最近ずっと感じていた感覚は、脳の後ろのほうが重くてじんじんしている感じだった。眼の下が少し重く、それにより瞼が少し重い感じ。

今回、鬱々とした感覚が長く続いてからカフェインで覚醒したことで、なんとなくこの集中モードとボーっとモードの比較を明確にできたような気がする。

ここでこの感覚を元に適当な仮説を考えて応用してみる。

 

交感神経・副交感神経と各モードの関連付け

自律神経は交感神経と副交感神経で構成されていて、交感神経は優位になると覚醒・戦闘態勢になり、副交感神経は優位になるとリラックス・睡眠態勢になる、というのが一般的理解と思う。自律神経そのものは心臓を動かすなど、脳の意識的部分に指示されなくても制御する自律的な制御系統という理解をしている。

脳の活動を考えた場合、思考などといった意識的部分がある一方、感情等の無意識的かつ分泌物系の要素も欠かせない。後者は前者に多大に影響を与える、というかどちらが影響し合っているものと理解している。そして後者の分泌物系は自律神経に指示されるものと考える。交感神経が優位の場合は興奮物質が多大に出され、副交感神経が優位の場合はリラックス物質が多大に出されるという考えだ。重要な事として、どちらが優位になったとしても、興奮物質やリラックス物質等の物質が完全になくなる瞬間はなく、常に両方存在し、そのバランスが変わるだけというイメージをしている(医学的なデータは知らん)。

ここで、集中モードは交感神経が優位な状態で、ボーっとモードが副交感神経が優位な状態と考える。ただしここで重要なことは、交感神経が優位であれば必ず集中モードになるとは限らないし、副交感神経が優位であれば必ずボーっとモードになるとは限らないと考える。あくまで脳内物質の存在比率のようなバランスとして、「集中モード」となる配分状態があり、それは交感神経が優位な状態という事ができる、という感覚がある。「ボーっとモード」に関しても同様。

つまり恣意的に集中モードに入るためには、ただ交感神経が優位な状態にすればいいという訳ではないと考える。副交感神経から出されるもののバランスも重要のように考える。これは各成分の存在比率のバランスなので、交感神経がどれだけ優位か(副交感神経がどれだけ劣位か)のような一次元的な考えでは表現できない。「交感神経優位率○○%の時に集中モードになり、それ以上にもそれ以下にもならないように制御する」という訳ではない。あくまで脳内物質の存在比率で、自律神経の優位性は結果的な値と考える。

 

わっしょいキャッチ

ある人の考えに「わっしょいキャッチ」というものがある。脳の中のわっしょいしている部分を見つけて、それをキャッチして離さないで維持し、そのわっしょいの拡大を待つことで脳全体でわっしょいできるようにするというテクニックだ(たしか)。自分の感覚的にこのわっしょいキャッチはわかる。

「集中モード」と「ボーっとモード」が脳内物質のある存在比率であるときの状態であるとして、その状態の時の感覚を覚えておき、わっしょいキャッチすることができれば、意識的に集中モードにすることが可能だろう、というのが今の考えだ。

脳科学的にどこまであっているかわからないが、感覚的にそうなのでできるのではないかと思う。おそらく過程の理論は大幅に間違っていようと結果は同じになるのではないか。理論はオカルトでも結果的にペニシリン摂取したら肺炎は治るだろう的な。

 

応用・使い方

今後は遊んだり仕事したりする際は、この集中モードのわっしょいキャッチをチャレンジしてみようと思う。集中モードの感覚が分からなくなったら、多少頭の中がスクランブルエッグになる覚悟でカフェインを決めて感覚を探しに行こう。

そして寝るときはボーっとモードをチャレンジしてみようと思う。ボーっとモードは動画を流しながら作業等しているとすぐなる感覚があるので、そんなに見失わないと思う。

集中モードのわっしょいキャッチの最初の鬼門は寝起きかな。。。

人を助ける不利益

正しいことをして、その結果を出したはずなのに、非難されることってあるよねってことでの備忘録(最後は正しい結果に繋がらなかった、独善だった、価値観の相違があったという話ではなく)。

 

10人が困っていた。

Aさんがそこに立ち会った。Aさんは助ける責任も義務もなかった。Aさんはだれも助けなかった。Aさんは何も言われなかった。

Bさんがそこに立ち会った。Bさんは助ける責任も義務もなかった。Bさんは9人を自発的に助けた。Bさんは非難された。「なぜ一人助けなかったのだ」。

 

人は常に完璧をできるとは限らない。そもそも誰かを助けるという事は、誰かを助けないというジレンマ的状況もあり得る。いずれの状況下でも、工数全体最適を考えてもプラスになり、一部においても絶対的マイナスを一切出さない結果だとしても、非難される場合がある。これは上記例の状況。

工数が見合わない結果になった場合の非難は妥当だ

裏目に出て誰もプラスにならなかった場合の批判は妥当だ。

・一部の人はプラスになったが、全体最適でマイナスになった場合の批判も妥当だ。

全体最適でプラスになっても、一部が絶対的にマイナスになった場合も、その一部からの批判も妥当だ。

・価値観の相違によって、マイナスと捉えた人がいる場合に、その人からの批判も妥当だ。

ただ、上記のいずれにも該当せず、全体最適でプラスになっており、それにより漏れた一部が相対的にマイナスになった場合(絶対的にはプラスマイナスゼロか微プラス)に、それの批判は妥当なのだろうか。この記事では、全て上記に該当しない場合を考えている。

この状況の場合、相対的なマイナスと取れるため、直感的に批判が行く気持ちもわからなくもない。一方、批判により活動内容をキャンセルし、元に戻しても、その人にプラスはない。

プラスになる何かをした人が、何もしない人より批判されるという状況に、大きな矛盾を感じた。

これもまた、「ない」を観測しずらいという人の直感という性能の弱さかもしれない。「何もしない」というのは観測されず、「何かをした」のみ観測され、観測の結果、重箱の隅をつつくような非難が発生する。

何もしないを怠惰と捉えることの難しさ、消極的加害者という考えの難しさなのかもしれない。人はそもそも「ゼロ」の発明に思いのほか歴史的時間を費やしている。「ない」を観測すること、「ない」と比較することは、人間の基本性能として難しいのかもしれない。

そこを理解した上で、行動をしないと、不当ともいえる非難に対して不当なメンタルダメージを受けてしまうと考えた。

情報を使った間違った考えの誘導や勘違い

思いついたのでとりあえず書く

こんな例を思いついた

 

例1:「ない」という情報を拾わない

全ての人がマスクを着けずにいた。感染者から感染経路を確認したところ、感染経路は飛沫感染接触感染とマイクロ飛沫感染だった。人々は言った「マスクをつけていれば、飛沫感染で感染した人の分は減らせたのに」

全ての人がマスクを着けていた。感染者から感染経路を確認したところ、感染経路は接触感染とマイクロ飛沫感染だった。人々は言った「接触感染とマイクロ飛沫感染はマスクで防げないので、マスクは不要だ」

 

例2:無差別は選別が入らないという勘違い

彼は殺人者だった。誰でもよいと無差別に、力の弱いものから襲った。人々は言った。それは「誰でもよい」ではないのでは?

彼はお腹が空いて食べ放題店に入った。なんでも良いと無差別に、美味しそうなものから食べていった。人々は言った。それは「なんでもよい」ではないのでは?