正しいことをして、その結果を出したはずなのに、非難されることってあるよねってことでの備忘録(最後は正しい結果に繋がらなかった、独善だった、価値観の相違があったという話ではなく)。
例
10人が困っていた。
Aさんがそこに立ち会った。Aさんは助ける責任も義務もなかった。Aさんはだれも助けなかった。Aさんは何も言われなかった。
Bさんがそこに立ち会った。Bさんは助ける責任も義務もなかった。Bさんは9人を自発的に助けた。Bさんは非難された。「なぜ一人助けなかったのだ」。
人は常に完璧をできるとは限らない。そもそも誰かを助けるという事は、誰かを助けないというジレンマ的状況もあり得る。いずれの状況下でも、工数や全体最適を考えてもプラスになり、一部においても絶対的マイナスを一切出さない結果だとしても、非難される場合がある。これは上記例の状況。
・工数が見合わない結果になった場合の非難は妥当だ
・裏目に出て誰もプラスにならなかった場合の批判は妥当だ。
・一部の人はプラスになったが、全体最適でマイナスになった場合の批判も妥当だ。
・全体最適でプラスになっても、一部が絶対的にマイナスになった場合も、その一部からの批判も妥当だ。
・価値観の相違によって、マイナスと捉えた人がいる場合に、その人からの批判も妥当だ。
ただ、上記のいずれにも該当せず、全体最適でプラスになっており、それにより漏れた一部が相対的にマイナスになった場合(絶対的にはプラスマイナスゼロか微プラス)に、それの批判は妥当なのだろうか。この記事では、全て上記に該当しない場合を考えている。
この状況の場合、相対的なマイナスと取れるため、直感的に批判が行く気持ちもわからなくもない。一方、批判により活動内容をキャンセルし、元に戻しても、その人にプラスはない。
プラスになる何かをした人が、何もしない人より批判されるという状況に、大きな矛盾を感じた。
これもまた、「ない」を観測しずらいという人の直感という性能の弱さかもしれない。「何もしない」というのは観測されず、「何かをした」のみ観測され、観測の結果、重箱の隅をつつくような非難が発生する。
何もしないを怠惰と捉えることの難しさ、消極的加害者という考えの難しさなのかもしれない。人はそもそも「ゼロ」の発明に思いのほか歴史的時間を費やしている。「ない」を観測すること、「ない」と比較することは、人間の基本性能として難しいのかもしれない。
そこを理解した上で、行動をしないと、不当ともいえる非難に対して不当なメンタルダメージを受けてしまうと考えた。