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怒っている人は怒っている人が悪い

怒っている人と、怒られている人がいる。

三者がそれを見て、どっちが悪いのかと思うと、大体怒られている人が悪いと思うと思う。

怒られている人は、自分が相手を怒らせてしまっているから自分がわるいと思っていると思う。

怒っている人は、自分を怒らせた相手が悪いと思っていると思う。

でも思うに、怒っている側が悪い時もある。

「悪い」というと語弊がある。怒る理由が怒っている本人にある時がある。

人間の感情は単純で、かつ理性的に制御できない。

そして人間の感情は一つの出来事に対して一対一でシンプルに決まるものではない。

睡眠不足、運動不足、栄養の偏り、日々の人間関係の不満、昨日の嫌だったこと、これから起きる不安なこと。劣等感や自分への不満。そういったものを含めて人には感情が発生する。そして感情を抑えられるかどうかも、それらによって決まる。

こんな場合を考えてみよう。下の図のようなストレスの具合を可視化した場合だ。

その人は日々睡眠不足で運動不足で食事の栄養が偏っている。それらに引っ張られ、昨日のストレスは残ったままで、人間関係はうまく行きづらい。さらにそれらに引っ張られ劣等感や将来への不安を抱えている。そういうところにちょっとした刺激が入ると、怒りが爆発する。

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これに対し、「怒らせた人がやったことは怒らせた人がやったことで別の事だ。怒らせた人が単体でその人の怒りの臨界点へ持って行ったのだ」と考える人もいるだろう。

しかし人間はそんなに原因と結果を物事毎に切り分けて感情を持てる生き物ではない。切り分けて考えることはできるが、切り分けて感じることはできない。

吊り橋効果というものがある。吊り橋でドキドキしている時に近くに異性がいると、その異性が原因でドキドキしていると勘違いするというやつだ。

イライラしている時に近くに、ちょっとしたことが起きると、それに怒りをぶつけてしまい、怒りの原因をすべてそれに関連付けてしまう。

人間の優れた知能は、無理やりにでも物事に意味を見出したり、関連付けることが得意なので、完全にそれがあだとなる。

また、少し話が変わるが、人によっては自己顕示欲を得るためや、ただストレス発散のために怒る人もいる。いわゆる「マウントを取る」というやつだ。

そういう人達は感情を爆発させてマウント取りたいだけなので、相手が悪いかどうかなど興味がない。「怒ってよい相手」という大義名分さえあれば、とりあえず怒ってくる。怒ること自体が目的なのだ。

怒っている時、怒られている時、それらの場面に遭遇した時、一体誰に主要原因があるのかは一考してほしい。もちろんさっきの図で書いたように、原因は一つではなく複合的なものの時の方が多い。本当に怒らせた人が悪い時もあるが、半分もないと思う。というかそもそも怒る人は、ストレスと溜め込みやすい人やマウント取りたがる人がほとんどだからだ。そういう人達は本人に原因があって、怒る頻度が多い。「いつも怒っている人」だ。

逆に滅多に怒らない人が怒ったら、それはやったことがかなり「まずいこと」だと思える。たった一つの出来事で、多くのストレス要因の合計値を凌駕したということなので。

国語ができない小学生と過剰な感情移入

自分は小学生の頃、国語の問題が解けなくて苦労した。

というか苦労したのはこの問題形式だ。

「この時の登場人物の気持ちを答えよ」

知らん。

そんなこと知らん。

そんなの本人にしかわからん。

作者ですらそれはわからんはずだ。

そう、自分は思っていた。

さて、考えてもわからないような問題だが、小学校の国語のテストには必ず答えがある。このような問題の解き方は大体メタファーによって導かれる。

例えば雨だ。雨が降っていることが、登場人物が涙を流していることの表現に使われていることがある。問題の解説のページにもそう書かれていた。

でも小学生の頃、自分はそれを理解できなかった。

悲しかったら雨降るか??

雨降ってたら悲しいのか??

登場人物の感情と天候って関係ないよね??

フィクションであろうと、その世界は小さな一つ世界であり、その世界の法則があると思っていた。作者ですらその法則に乗っ取っており、作者の都合で世界を改変することはありえないことだと思っていた。

だってそれが可能なら、どんなご都合主義でも可能だ。突然主人公が覚醒して、死んだ家族を死者蘇生されるかもしれない。伏線など不要だ。なんでもありだ。整合性などいらない。そこに何の意味もなく、それはただの文字列だ。この考えが、国語の問題が解けない理由・原因だった。

しかし、フィクションとはそういうものであることが、高校生ぐらいの時に気づいた。

自分はフィクションの世界の登場人物に過剰に感情移入していたのだ。

フィクションの登場人物に対する、「作者の都合による世界の改変」という理不尽が許せなかったのだ。フィクションの登場人物も、考えて決断して行動している。どうすればどうなるのかを考え、考え抜いて決断して行動している。それは主人公も、敵役も同じだ。その結果を作者の都合で自由に改変される「可能性」が許せなかったのだ。「どう思っているか」、「どう感じたかすら」すら作者の意図によりコントロールされる世界が恐怖だったのだ。

それがわかって以来、フィクションの見方が変わった。先の展開が読めるようになった。その分、王道の物語ではわくわくドキドキを感じづらくなった。

誰でもフィクションを読んでいると、その端々に作者の意図・書きたいことが少しずつ見えてくるものだと思う。その内容から、その後の展開が読める。中ほどまで読んでしまうと、もう終盤の展開はわかる。実際に読んで、「ああ、やっぱり」となる。それは王道であるほどそうだ。

様々なフィクションを読むほどその展開パターンが記憶されていく。新しい結末のパターンを読むとそれはとても楽しいが、次からはもうわくわくできない。どんどん幅が狭まっていく。

結局作者の都合が入り込まないフィクションを求めるようになった。

それは作者の思考実験のようなフィクションだ。

興味が湧くのは舞台装置と物語の展開過程だ。作者の都合が入り込まない世界では、物語は最初の初期設定(舞台の状況や登場人物の性格や過去など)によって結末は一意に定まる。舞台装置の中で、登場人物の様々な考えが交錯していき結末へ導かれる。

ガンダムという世界で、モビルスーツが戦う理由は「モビルスーツに戦ってほしいから」という作者の意図ではない。ミノフスキー粒子の発見により長距離ミサイルや長射程レーザー砲が使えなくなり、有視界戦闘が基本となったため、出力重視の大型宇宙戦艦ではなく機動力に優れたモビルスーツが使用されるのだ。そして宇宙に人類が進出し、宇宙コロニーの人間が腐敗した地球人に搾取されるとどうなるか、その時に登場人物(ある行動特性を持った)がいたらどうなるか、を思考実験している。

思考実験の世界はとても楽しい。どう考え、どうなると思うのか、という作者の純粋な意見を聞くようで楽しい。自分のフィクションの楽しみ方は変わった。

結局、登場人物一人一人に感情移入はしなくなった。登場人物の特性・感情・性格・過去は物語の結末を導くピースに過ぎない。

感情移入しすぎた子供は、フィクションの世界が作者の箱庭だと気づいてしまった時、それはもう思考実験のための実験場になった。作者の都合で結末や感情すら支配される登場人物と、自由意見があってもそれすら舞台装置による必然である箱庭に生きる登場人物と、どちらの方が幸せなのかは、本人にしかわからないか。

人生の方向性 刹那主義との折り合い

最近人生の方向性がわからなくなってきている。

自分は20代後半の独身男性会社員だ。彼女はいない。

とりあえず今食うのに困っていたりしないし、趣味を楽しむ金銭的余裕もある。

最近までは会社の長時間労働と無駄にひどいプレッシャーにより趣味と睡眠の時間が削られていたが、最近部署移動があって緩和されつつある。

しかし、自分が何をしたいのかわからなくなってきた。

たまにそういうことがある。

主に普段やっていることにマンネリ感を感じてきたのもあるかもしれない。

自分は比較的多趣味だと思っているが、最近はそのルーチン化されたものの中でしか行動していない気がする。ジム行って、ゲームして、カフェで本読んで、サバゲー行って、性欲処理して。

元々比較的多趣味なのも、自分に満足させてくれる楽しいことを追い続けた結果なのだ。

結婚している男性や彼女がいる男性は、こういうのをあまり感じないのではないかと思う。配偶者や子供を幸せにするという、簡単ではないが明確な方向性があるからだ。

一方自分にはそれがない。独身であることは自由だとよく言われるが、方向性を見失った自由とはただの迷子だ。

自分探しの旅をするべきか、というのもあるが、会社に所属して2年が経過し、自分探しは完了している。現実的かは差し置いて、自分の原始的な方向性はわかっている。働かずに、何も強制されずに生きていきたいのだ。しかしこれはあまりにも現実性がなく、具体性もない。どうすればそうなれるのかを具体的に計画が見つからない。だからこれは除外している。

この虚無感である。

一時期はステーキとか寿司とか美食に費やしてきたが、いよいよそれもルーチン化されつつある。何か新しい世界を探すべきか。そういや馬肉をネットで買って食べてみたいと思っていた。やってみてもいいかもしれない。

しかしそうやって「やってみたかったこと」を片っ端からやっていって、たどり着いたのがここなのだ。まだ「やってみたかったこと」はあるが、あまり残されていない。それをやりつくしてしまった時、自分はどうなるのだろう。

ゲームでもすべての内容をコンプリートしてしまえばだれでも電源を落とすだろう。もう一度最初からやるなり、RTAやるなりするかもしれないが、コンプリートしたデータを続ける人は少ないのではないか。

長期的なやりたいことがない、でも刹那主義的にやりたいことはネタ切れになりつつある。このジレンマ。勿論やりたいことの全てがネタ切れなわけではない。金銭的な制約、時間的な制約による実質的なネタ切れだ。だから会社を一旦辞めて、貯金を削って遊ぶことで金銭的・時間的制約を排除し、やりたいことをする手段もある。しかしそれはあまりにも博打だ。その後は再就職に苦労し、食うに困る生活が待っているかもしれない。

何のかんのいって、食うに困る生活は嫌だ、という長期的なプランを持っている自分が恨めしい。長期的にやりたくないことはあるのだ。

会社に所属することで時間的制約を持ちつつ、できる範囲のことで今の生活を維持することがベターなのかもしれない。一応美味しいもの食べたり、ジムに通えるお金はあるのだから。

しかし、たまに襲ってくるこの唐突な虚無感はいかんともしがたい。

多くの人はどのように折り合いをつけているんだろう。