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国語ができない小学生と過剰な感情移入

自分は小学生の頃、国語の問題が解けなくて苦労した。

というか苦労したのはこの問題形式だ。

「この時の登場人物の気持ちを答えよ」

知らん。

そんなこと知らん。

そんなの本人にしかわからん。

作者ですらそれはわからんはずだ。

そう、自分は思っていた。

さて、考えてもわからないような問題だが、小学校の国語のテストには必ず答えがある。このような問題の解き方は大体メタファーによって導かれる。

例えば雨だ。雨が降っていることが、登場人物が涙を流していることの表現に使われていることがある。問題の解説のページにもそう書かれていた。

でも小学生の頃、自分はそれを理解できなかった。

悲しかったら雨降るか??

雨降ってたら悲しいのか??

登場人物の感情と天候って関係ないよね??

フィクションであろうと、その世界は小さな一つ世界であり、その世界の法則があると思っていた。作者ですらその法則に乗っ取っており、作者の都合で世界を改変することはありえないことだと思っていた。

だってそれが可能なら、どんなご都合主義でも可能だ。突然主人公が覚醒して、死んだ家族を死者蘇生されるかもしれない。伏線など不要だ。なんでもありだ。整合性などいらない。そこに何の意味もなく、それはただの文字列だ。この考えが、国語の問題が解けない理由・原因だった。

しかし、フィクションとはそういうものであることが、高校生ぐらいの時に気づいた。

自分はフィクションの世界の登場人物に過剰に感情移入していたのだ。

フィクションの登場人物に対する、「作者の都合による世界の改変」という理不尽が許せなかったのだ。フィクションの登場人物も、考えて決断して行動している。どうすればどうなるのかを考え、考え抜いて決断して行動している。それは主人公も、敵役も同じだ。その結果を作者の都合で自由に改変される「可能性」が許せなかったのだ。「どう思っているか」、「どう感じたかすら」すら作者の意図によりコントロールされる世界が恐怖だったのだ。

それがわかって以来、フィクションの見方が変わった。先の展開が読めるようになった。その分、王道の物語ではわくわくドキドキを感じづらくなった。

誰でもフィクションを読んでいると、その端々に作者の意図・書きたいことが少しずつ見えてくるものだと思う。その内容から、その後の展開が読める。中ほどまで読んでしまうと、もう終盤の展開はわかる。実際に読んで、「ああ、やっぱり」となる。それは王道であるほどそうだ。

様々なフィクションを読むほどその展開パターンが記憶されていく。新しい結末のパターンを読むとそれはとても楽しいが、次からはもうわくわくできない。どんどん幅が狭まっていく。

結局作者の都合が入り込まないフィクションを求めるようになった。

それは作者の思考実験のようなフィクションだ。

興味が湧くのは舞台装置と物語の展開過程だ。作者の都合が入り込まない世界では、物語は最初の初期設定(舞台の状況や登場人物の性格や過去など)によって結末は一意に定まる。舞台装置の中で、登場人物の様々な考えが交錯していき結末へ導かれる。

ガンダムという世界で、モビルスーツが戦う理由は「モビルスーツに戦ってほしいから」という作者の意図ではない。ミノフスキー粒子の発見により長距離ミサイルや長射程レーザー砲が使えなくなり、有視界戦闘が基本となったため、出力重視の大型宇宙戦艦ではなく機動力に優れたモビルスーツが使用されるのだ。そして宇宙に人類が進出し、宇宙コロニーの人間が腐敗した地球人に搾取されるとどうなるか、その時に登場人物(ある行動特性を持った)がいたらどうなるか、を思考実験している。

思考実験の世界はとても楽しい。どう考え、どうなると思うのか、という作者の純粋な意見を聞くようで楽しい。自分のフィクションの楽しみ方は変わった。

結局、登場人物一人一人に感情移入はしなくなった。登場人物の特性・感情・性格・過去は物語の結末を導くピースに過ぎない。

感情移入しすぎた子供は、フィクションの世界が作者の箱庭だと気づいてしまった時、それはもう思考実験のための実験場になった。作者の都合で結末や感情すら支配される登場人物と、自由意見があってもそれすら舞台装置による必然である箱庭に生きる登場人物と、どちらの方が幸せなのかは、本人にしかわからないか。