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常識人に絶望した変人

自分は変人だった。

自分は変だと言われて育った。

小学生の頃から、親から「あなたは変だ」「そんなこと考えない」「そうは思わない」と言われて育った。「常識がない」「普通考えれば当たり前なのに」「そんなこともわからないのか」と言われて育った。

だから自分は普通の人になろうと思った。中学一年生の頃の自分の目標は「平均的人間」になることだった。

何が常識なのか、何が普通なのか、何が当たり前なのか。

自称「常識人」の行動を観察し、何が普通で常識なのかをつぶさに勉強した。一つ一つ考えて常識を理解しようとした。

高校生の頃にはそれがかなり明瞭にわかってきていた。だから日常は楽しかった。

高校生の頃に徐々にわかってきていたが、常識とは多数派のプロトタイプと、それに伴う思考の短縮だ。

プロトタイプとは真っ先に思いつくものだ。「鳥」と言われてパッと想像するのが「鳩」の人は、鳥のプロトタイプが鳩だ。プロトタイプは人によって異なる。「鳥」と言われてパッと想像するのが「始祖鳥」でも、それは鳥なのだから何の間違いもない。

しかし「鳥の絵を描いてください」とだけ言われて、100人中99人が鳩の絵を描く中、一人だけ始祖鳥の絵を描いていたら、それは「変」なのだ。間違いではないのに。また、指示した側が「鳩等の鳥を限定していたつもりだが、思考の短縮により『鳥』という単語を使った」場合はひどいことになる。なぜそんなものを書いたのか?となる。もちろんコミュニケーションはプロトタイプが近い人同士の方が楽なのは間違いない。だからこそコミュニケーションが取りづらいプロトタイプが異なる人間に排他的になるのかもしれない。

大事なことは、「常識とは多数派のプロトタイプに過ぎず、正しいか間違っているかは一切関係がない」ということだ

さて、ここで大学時代にあることに気づいてしまうのだ。

どうしてみんなそんなに怠けるのだ?なぜ宿題をしない?なぜ講義をさぼる?なぜ部活動の練習を真面目にやらない?なぜ人に嘘をつく?なぜ人を笑いものにする?なぜ生活リズムを壊してまで酒を飲む?それらは良い行いなのか??

世の中は真面目じゃない人が大半だ。宿題のプロトタイプは「やらない」なのだ。自分で選んで入学した大学なのに、講義をサボってバイトをするのが「当たり前」なのだ。

そういった彼らに「変人」と蔑まれると、どうだろう。彼らは多数派であるだけで、優れている訳でも、正しいわけでもない。ましてや物事の本質を捉えようと思考した上で行動を選択している訳でもない。何か遂行な理想があって行動している訳でもない。プロトタイプのまま、非常に直感的なのだ。

社会人になった後でもそれは変わらない。ルールを違反するどころか、そもそもルールを知ろうともしないのに、逆にルールを守る人を「お堅い」「冷たい」「人間的じゃない」とか蔑む。そう思うなら、そんなルールを撤回するように行動するのが正当だろうに。短絡的に個人に当たる。

攻殻機動隊の言葉だが、「水は低きに流れるように、人の心も低きに流れる」。常識という言葉は、思考せず短絡的に行動できるという怠惰を、低く流れられる環境を、構築してしまっている気がする。

しかし、人間社会は人間により運営される。より多くの人を幸せにすることが社会の役割であるならば、多数派である自称常識人達を幸せにすることが人間社会の目標とも言える。しかし、そのように不真面目で、正しくあろうともしない人々を幸せにしようとし、それとは無関係に真面目で正しくあろうとする人が笑いものにされる世界が正とされるのであれば、絶望しか感じない。いつか遠い未来でも良いから、誠実で、人にも本人にも優しく、思慮深い人間が常識人にはならないだろうか。