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共感を求め相談をすること自体が大きなリスクの価値観が違う人

BLGTの人とか、先天的後天的問わず特殊性癖や、特殊な欲求・衝動を持つ人ってこれに陥って積むよね。特殊っていうのは、人間の性癖・欲求・衝動を分布で表現した場合、中心値からかなり離れた個所に位置する、少数派(端側)という意味ね。人類の99%がドラゴンカーセックスが好きなら、そこではドラゴンカーセックスで興奮できない人が特殊性癖になるって意味。

この分布ってのの最も単純なイメージを下記グラフで書いた。実際には感性は一つの軸で表せられないから、本当はこれが3次元, 4次元, 5次元って感じで非常に大きな次元で広がっていると思ってほしい。比較的イメージしやすい3次元だと富士山みたいな感じ。あれでも2軸しかないけど。とりあえず、感性の存在比率は分布して、多数派と少数派がいるよねって話。世の中の商品のラインナップを見てれば如実にわかると思う。

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話しを戻すと、先天的な場合でも、その分布と端に位置する特性で生まれたのに、自己フィードバック欲求がなまじ搭載されているから孤独が辛いのだね。どうしようもないね。どうしてるんだろうね。

ある意味一番きついのが、共感はコミュニケーションで必ず解消できると思っている人に諭されることかもしれない。

共感は理解とはすこし異なる。ドラゴンカーセックスで興奮する、ということを、その事実を理解することは誰でもできると思う。しかしそれに「いやーそうだよね。俺もそう思う」と『共感』できる人は、本当にドラゴンカーセックスで興奮できる感性を持った人だけだ。

もちろん、感性の差が小さい時はその『理解』から『共感』に変化する場合もある。性癖の開発なんて最たるもので、それを考えると理想上はあらゆる『理解』を『共感』にできると思う。

性癖開発等の感性の開発は、広げる変化量が大きいほど、時間と労力が必要になる。それと本気で向き合う気力と時間がなければいけない。これが広げられる変化量に上限を生む。理想上はできる話を、現実的に難しくする。その上限は人によって異なる。全く自分の感性を広げられない人もいるし、様々な感性を理解しようと努力する人もいる。勿論その人の上限も、本人の考え方次第でいくらでも変化する余地がある。ただ、なんであれ、それは簡単にできることとは限らないということ。

またもう一つ現実的問題として、向き合われる側の心的負担だ。共感しようする側と、共感される側の向き合い時、共感される側にとってそれは心的負担を生む。本当に共感されるかもわからない相手に、自分をさらけ出す必要があるからだ。そしてもしも、最終的に共感してもらえなかった場合、完全に「共感不能の怪物」として扱われることが容易に想像できるからだ。分布の端の感性を持った人ほど、その「共感不能の怪物」扱いが、変人扱いが心に響くか、身をもって知っているだろう。『共感できるかもしれないから私に話してみて』というのは『勝てるかもしれないから君の名義で借金して一緒にギャンブルしよう』と言っているようなものだ。一番痛い目を見る可能性があるのは、共感される側だ。共感しようとする側にコストはあってもリスクはない。ここが、よくあるすれ違いポイントだと思う。

共感する側にも負担はもちろんある。新たな感性を理解しようとすることは、結構脳を使う。でも共感する側は、それを途中で降りることにダメージがない。リスクがないのだ。一度始めて「やっぱ辛いからやめた」ができるのと、できないのとでは差が大きい。そして降りられた時にダメージを被るのは共感される側だけだ。ある種生命与奪を握られるような恐怖もあるだろう。

さて、ここまで「どうして共感はコミュニケーションで必ず解消できるとは限らない」ことと話してきたが、次に「どうして共感はコミュニケーションで必ず解消できる」と思っているのかを考える。これは、そう考えてしまわれても仕方ない、という話に落ちる。

特殊じゃない人、つまり分布の中心値付近に存在する人は、生きる上で出会ったほとんどの人と共感できたという経験があるのだと思う。出会った人が自分に近い特性を持っている可能性が高いからだ。感性の差が小さい場合は少しの労力でそれを乗り越えられる。きっと多くの感性の差を、コミュニケーションで乗り越えてきたのだと思う。だから飲み会とかのコミュニケーションが好きなのかもしれない。大きな差に出会った時、その成功体験があだになる。2階から飛び降りても平気だったから3階からも飛び降りようとしてしまうのだ。簡単だ、宙に浮いて足から着地すればいい。衝撃が激しければ転がって衝撃を逃がせばいい、それだけだ。成功体験で得た自分なりのノウハウを片手に、高層ビルから飛び降りようとする。ただ、よりにもよって失敗した際の被害を被るのが共感される側なのだ。

 

そんなこんなで、共感を得ることは難しい、そして共感を強要しようとしてくるのも辛いという話をした。共感の過程で自分をさらけ出す必要があるため、相談自体がリスクを持つという話もなんか流れでしてしまった。まぁそういうことだ。

分布の端側の人の多くは、処世術として成人する前に中心値側の人に擬態する能力がついていると思う。共感を求め相談することは、その擬態を外すことと同義だ。『実は私はあの時助けていただいた鶴なんです』と言って、「は?」と言われてから『あ、今のノーカンで。忘れてください』とはいかないのだ。それまで生きてきて、理解・共感してもらえる可能性の低さ、そして失敗した時に受ける扱いの辛さを身をもって何度も経験しているからこそ、リスクの過大評価にすら繋がりかねない。トラウマってやつだ。そして擬態している人は擬態している分、なおさらその転落は大きく感じるだろう。それがより、相談のリスク計算結果を吊り上げる。

彼らって一体どうやって折り合い付けてるんだろうね。ブログにガーっと書いて発散とかしてるのかね。

最後に、私はBLGTではないし、そういう人達を応援している人でもないです。期待していた方、ごめんね。