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自信は公理

「自信がない」という人がいる。

「自身がある人は、どうしてあんなにも自信満々なのかがわからない」という人もいる。

気持ちはわかる。しかし自分は一つの答えを持っている。

自信とは公理だ。

定理ではない。厳密には定理も公理になるが、必ずしも定理である必要はない

なお、公理とは、「その他の命題を導きだすための前提として導入される最も基本的な仮定のことである。」(wikipedia引用)。定理とは、「数理論理学および数学において、証明された真なる命題をいう。 」(wikipedia引用)

定理とは何かしらによって証明されたものだ。

一方、公理とは前提として仮定したもの、決定したものだ。証明されたものとは限らない。

自信とは公理なのだ。

自信がない人は、自信がある理由を探す。もしくは自信がない理由を探す。自信を証明したがる。

「これこれこういう理由で合っている可能性が高い」とか、逆に「これこれこういう理由で100%合っている保証はできない」とか「極低確率だがこのような反例がありうる」とか。

理由や根拠、証拠があって保証されるもの・証明されるものは定理のグループだ。どのような議論があろうと、理由・根拠・証拠を元に構築されたそれは定理であり、そして単なる客観的事実、もしくは確率分布だ。

勿論定理は公理になりうる。自信の証明は理論上可能だ。

しかし、現実世界での絶対の証明は事実上不可能で、どこかに最初の仮定(公理)が必要になる。マトリックスではないが、我々が見て聞いて感じていることがすべて脳の勘違いである可能性を捨てきれない。「自分の眼で見て聞いていている(と脳が考えている)ことは真実である」という仮定が必要だ。

ただそこまで言わなくとも、多くの人が持つ自信の多くは、結局根拠もない公理だと思う。

繰り返しだが、公理は仮定であり、仮定は決定するものであって、証明されるとは限らない。(仮定の正しさを証明する議論もあるが、仮定を決定した後の議論では仮定の証明は不要だ。)

例えば、他人の自信に一つ一つ反論し、反例を上げ、そうではない確率を計算することは可能だろう。しかしその人は納得しないだろう。なぜならその人はそれを「そういうもの」として、もう仮定しているからだ。自信としてその人はそれを公理にしており、どんな事実を提示されても、「それはそれとして」流されてしまうのだ。最初に「それをそういうもの」と仮定して決定されているので、そこから先の議論に仮定の正しさは論点に入らないのだ。

 

自信がない人は、自分でそれを公理にしてみてほしい。正しいかどうかはさておき、証明可能かどうかはさておき、仮定して決定してみてほしい。

それが自信だ。

ただ、「決定」には「責任」が付きまとうので、そこのリスクマネジメントだけは必要だ。

もしかしたら、自信がないのはリスクの過大評価、もしくは自信によって得られるリターンの過小評価かもしれない。

なお、この文章は単語の意味の端々で数学者達を怒らせている可能性がある。そこは申し訳ない。ただ、非難されるかどうかの不安というものは、根拠のない自信というものでかき消されている。