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ゴネ得との付き合い方の一つ

最近いわゆる「ゴネ得」というものに出会うことがあった。

悪質クレーマーといった感じだ。

自分はその人とのコミュニケーションに非常に不快感を感じ、苛立ちを持っていた。それが何なのか、考え続けた結果いろいろと考えが浮かび、一言にまとめると「ゴネ得」であった。ゴネ得への不快感だった。自分の相手に感じた不快感を拙くも直接的に言語化するとこんな感じだ

①不満を言うだけ言って、自分で解決しようとする気は全くない

②不満を言えば誰かがやってくれるものと思っている。相手方の組織が行うのが義務と思っている(実際には義務ではないが、相手がそれが義務でないことを決して理解しない・納得しない)

③不満を解決してくれると思っている人の工数を全く考えず、理想論を掲げる。具体的な手法は一切考えずに丸投げで、解決は相手の義務と考えている。(義務ではない)

④正当性や妥当性の判断に必要とする、客観的データや他の判例等は「他は他、うちはうち」と言って要求はひたすら主観的であり、際限がない。それらのデータを取り合わないため、落としどころのベンチマークすら存在しない。

➄永遠に際限なく要求を続けながら、自分は決して要求を達成するための活動を行わず、要求が達成されていればラッキー、されてなければ被害者面、という態度が見える。そもそも要求が達成されても更なる要求を延々と出すため、「ラッキー」等表にも出さないが。

こういう感じだ。書いててイライラしてきた。これをゴネ得と感じた。ゴネ得のWebil辞書の定義は以下だった。

『不平や自分勝手な言い分を言うだけ言って相手に負担をかけ、結果として利益を得ること。 ゴネることでをすること。』

まさしく自分の不平不満、主観的な勝手な言い分だけを、相手の負担も考えずに言い、あわよくば利益を得ようという魂胆だ。

自分はこれにとてつもない不快感を覚えた。ただこれについてちょっと考えてみた。

 

①ゴネ得との和解が不可能が理由

自分は議論・コミュニケーションとは「常にお互いの意見をぶつけて相互理解しながら、現実的な落としどころを探り合い、納得しながら互いの利益を最大化すること」と思ってきた。ただ、ゴネ得はそうではないのだ。

ゴネ得はひたすら相手に要求を続けて利益を引き出す。彼らは落としどころ・和解・理解・納得ができない。なぜならそれらをした瞬間、自分の受け取る利益がそこで止まってしまうからだ。勿論、最終的に暴力や強制力といった力を背景に持つ組織との議論では、永遠に利益を要求し続けても強制力の執行により、ゴネ得する彼らにとっては全く利益を得られない結果になるため、ある程度の引き際を持つ。ただ、それの天井はそもそも正当性、妥当性を考えると非常に高い。彼らにとってゴネ得は値引きと同じで、「本来は〇〇分のところを、ゴネただけで○○になった!」という考えなので、非常に高いのは必然だ。

このように、彼らは利益のために決して和解・理解・納得・落としどころが構造上困難だ。よって、自分が元々考えていた、「相互理解を経て、お互い納得のいくように利益の最大化を図る」ことは彼らには通じないのだ。彼らにとって相手の利益などどうでもよく、相互理解も納得も、自分の利益を減らす障害でしかないのだ。

 

②ゴネ得の必然性

このゴネ得の特性だが、ジョン・フォン・ノイマンが作ったゲーム理論での「囚人のジレンマ」を思い出した。囚人のジレンマはググれば詳細出てくるが、要は「個人の利益を最大化する個人の行動と、個人を含む全員の利益を最大化する個人の行動は、同一とは限らない」というものだ。AさんとBさんの得る総利益を最大化する行動と、Aさんが得る総利益を最大化する行動は異なる場合があるということだ。全体に際限がある、同じパイを分け合うような場合であれば、Aさんの利益を大きくしてもBさんの利益が減るシーソーゲームなのでどうやっても総利益は同じになり、全体に際限がない場合は、Aさんの利益が増えるほど、Bさんの利益とは独立のため総利益は増加する。このように考えると、個人の利益の最適化は全体の利益の最適化に悪影響を与えないため、直感的には反するように感じる人もいるかもだが(私もそうだ)、それは問題設定次第でそれは変わるということだ。経済学ではそれまで私のような考えが主だったようで、ジョン・フォン・ノイマンゲーム理論により、個の最適行動が全体の最適行動と異なるという具体例を出し、経済学の考え方が変わったらしい(知らんけど)。

さて、ゴネ得はまさしくこれと思った。相手の工数など考えずに要求を吹っ掛け、利益が出たらラッキー、利益が出なくても自分は何も痛まない、というゴネ得行動はまさしく個の最適行動であり、全体の最適行動と程遠いい。経済学的?観点で考えると、個の最適行動たるゴネ得を行うのはある種必然といえる。

ただ、ゴネ得する人間と長く付き合いたい人などいるわけがなく(それはゴネ得する人が自分の工数を不要に増やし、自分の利益を増やさない存在のため、己の利益を最適化するために避けるのは必然だ)、長期的な視野を入れるとゴネ得は個の最適行動とは言い難いことは留意される。ただ、一部の感性の持ち主や考え方の人は長期的視点を持たない、もしくは人間関係を焼畑農業するため、短期的な視野での最適行動であるゴネ得をするものと思われる。もしくは、強制的に人間関係を維持される環境下では、その環境を利用して行っていると思われる。

このように、「ある考え方をした場合、ゴネ得は一種の最適行動」ということだ。

 

③ゴネ得の世界

さて、ゴネ得は嫌なことだと思うが、世界ではそれが沢山起きていると思われることに気づいた。おそらく、多数決を取れば、ゴネ得をしないほうが良いという感性を持つのが少数派だと思った(本当かどうかはわからんけど)。これは批判的な意味ではない。「ゴネ得はして当たり前で、権利はそうやって勝ち取っていくもので、行儀よく相手のお話なんか聞いていたら権利なんて失ってしまう」という生存競争的価値観こそが多数派であるのではないか、ということだ。ゴネ得への不快感など、おそらく生まれた時から生存権が得られ、自分で頑張らなくとも権利が得られてきた一部日本人の潔癖感覚なのかもしれない。もしくは、日本は「和を重んじる」というように、全体最適を至上の目的とするような考え方が昔からあるのかもしれない。逆にアメリカは起訴の国なんて言われるほどだが、歴史的にも「権利は自分で勝ち取るもの」という考えがあるように感じる。

これらのゴネ得は国家の政府としても行うことがあるように見える。日本と中国の歴史的問題(領土)、日本と韓国の歴史的問題、トルコとアルメニアの歴史的問題もそうと捉えることもできる。本当の歴史的真実の探求よりも、個(自分の国)の利益最適化のために行動しているようだと捉えるということだ。人類が多種族との生存競争を生き延びた後、同種族社会内での生存競争が、権利・利益の奪い合いであり、それのある視点から見た最適行動がゴネ得なのだ。なお、先に書いた通り、短期的視点で見ればゴネ得が最適行動だが、長期的視点で見れば、ゴネ得してくる相手と長い間関係を持っていたいなどと思わないため、貿易等なんらかの強味がない国(相手にとってゴネ得相手との関係を絶つことが最適行動になる国)は、その行動が取れない。相手のゴネ得を絶つ方法は、相手との交流を絶つことがゴネ得された側の最適行動になるよう手回しすることだろう。

 

④ゴネ得と今後

さて、ゴネ得ということだが、今後のビジネスかつ個人の行動という視点から考えた場合、このゴネ得というものは難しいものとなっていくと思う。というのも、世界はインターネットで繋がり、様々なものにアクセスが容易となり、ものすごい速度で進化していっている。多くの天才たちが協力し合い、新しい世界を作り出していっている。このような場で声をかけられた際にゴネ得などしたらどうなるか、「別の人を探す」で終わりである。また、自分がより良い成果を出すために人と交渉する際、それをへたにゴネ得しようとし交渉に失敗したとしよう、ライバルたちはその間に多少の自分の取り分を減らしつつ、個人ではたどり着けない高みへ登っていき、取り分比率は低いかもしれないがパイ自体が大きくなってより大きな利益を手にするだろう。自分の権利は主張して確保しなければならないが、Weblio辞書にあるような「相手に負担をかける」ような場合はそうなると思われる。ビジネスは運ゲーなところがあるので、期待値的な行動として、という話だが。

一般的な言葉として「協力し合うことが大切」というが、今まさしく「協力し合えば勝てるのであれば、当たり前のように協力して勝つ」という世界になっていくと思うので、協力をし合わないゴネ得者、もしくはそれを内包する組織(とそれに属する人)は生き残ることが難しいと思われる。一応少なくとも日本では行政がしっかりしているので、それで個人が飢え死にということはないと思われるが。

結論として、個人レベルにおけるビジネスの視点において、成功期待値を最大化する試みの選択肢として、ゴネ得が有効ではない場面が今後増えていくのではないかと思われる。(クレーマーレベルの短期的かつ独立的個人活動なら引き続きゴネ得が有効と思われる)

 

➄ゴネ得の対策

さて、ここまで来てゴネ得の対策だ。そもそも対策する意味があるかどうかだが、ゴネ得を不快と感じ、本人に何らかのマイナス効果があるのであれば、それを取り除く取り組みもまた必要と思われる。その手法としての対策だ。③&④にも書いた通り、ゴネ得の対策は「ゴネ得相手との関係を絶つこと」で、①&②で書いた通り、構造上これしか対策手法はない。①&②で書いた通り、ゴネ得は個人の利益を最適化するための行動で合って、その特性から和解・相互理解・納得はできない。そのため、遮断しか方法がない。むしろ、ゴネ得は関係者にマイナスをもたらすため、遮断自体が得策と言える。

ゴネ得が不快だから遮断という対策、という書いたが、全体の利益の最大化を考えなくては組織の生き残りが厳しいとも考えられる時代においては、己の利益の最大化のために積極的な遮断も必要かもしれない。

では遮断できない場合はどうするか?遮断できない理由から対策するしかないだろう。何らかの構造上、遮断ができない、というか遮断という手法に関連し必ず他の不利益が発生する場合は、自分の損失を最小化するために受け入れるしかないだろう。そして、遮断できなくともできる限り相手にしないように努める。どれだけゴネ得相手に時間を割いても、相互理解による納得は構造上不可能だし、あなたに利益が出ることは構造上あり得ない。相手にすればするほど工数を失うだけだ。

受け入れる際だが、「相手はこうして主張しないと権利を得られてこなかった人なんだろう」と思うと少し可哀そうな気がして精神的な不快感が緩和されるかもしれない。ゴネ得は全体最適化とは程遠いい行動で、信頼関係を破壊する行為となる場合もある。そういったゴネ得の結果、信頼関係を失い、それに伴い人に蔑ろにされ、「人間扱いされる」という言葉にされない権利すらを失い、それを挽回するために可能な限り権利を得ようと足掻いてゴネ得しているという構造も考えられる。そうなるとなお哀れだ。

ゴネ得対策:ゴネ得している人とは関係を絶つ。絶てない場合は相手の事情を察して可哀そうな人として同情をしつつ、できる限り関わらないように接する。

ゴネ得している人へ:まず人を信じて、全体の利益の事を考えてみた方が良いかもしれない。それを行動に移し続ければ、あなたは相手にとって有用な存在になり、自然と権利が与えられるはずだ。搾取されないようにうまいこと少しずつ権利を主張しよう。千里の道も一歩からだ。

 

おまけ

自分は議論・コミュニケーションとは「常にお互いの意見をぶつけて相互理解しながら、現実的な落としどころを探り合い、納得しながら互いの利益を最大化すること」と思ってきた。この考えのため、ディベートは議論として最適ではないと思っていた。ディベートのゴールはYes or Noで、落としどころの模索ではないからだ。ただ、今回考えてみて、ディベートが「権利を主張して得るもの」という考えを背景に濃く持つというアメリカで生まれたと考えて、考えが思い立った。彼らにとっては「如何にして自分の権利をYesとするか」が非常に重要な文化なのだろう。だからデモ等も盛んだと思える。逆に「全体の最適化、落としどころ、納得」は「和を以て貴しとなす」日本文化といえるだろう。文化なので、どちらが正などというものではない。ただ、より良いものを作るのであれば、落としどころを模索する議論が有用で、奴隷解放等の現在(当時)の常識/前例/慣習の破壊のためにはディベートやデモ活動といった議論が有用だろう。議論の最適とは一つではなく、状況と目的に応じた最適手法が複数あるということだ。

共感を求め相談をすること自体が大きなリスクの価値観が違う人

BLGTの人とか、先天的後天的問わず特殊性癖や、特殊な欲求・衝動を持つ人ってこれに陥って積むよね。特殊っていうのは、人間の性癖・欲求・衝動を分布で表現した場合、中心値からかなり離れた個所に位置する、少数派(端側)という意味ね。人類の99%がドラゴンカーセックスが好きなら、そこではドラゴンカーセックスで興奮できない人が特殊性癖になるって意味。

この分布ってのの最も単純なイメージを下記グラフで書いた。実際には感性は一つの軸で表せられないから、本当はこれが3次元, 4次元, 5次元って感じで非常に大きな次元で広がっていると思ってほしい。比較的イメージしやすい3次元だと富士山みたいな感じ。あれでも2軸しかないけど。とりあえず、感性の存在比率は分布して、多数派と少数派がいるよねって話。世の中の商品のラインナップを見てれば如実にわかると思う。

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話しを戻すと、先天的な場合でも、その分布と端に位置する特性で生まれたのに、自己フィードバック欲求がなまじ搭載されているから孤独が辛いのだね。どうしようもないね。どうしてるんだろうね。

ある意味一番きついのが、共感はコミュニケーションで必ず解消できると思っている人に諭されることかもしれない。

共感は理解とはすこし異なる。ドラゴンカーセックスで興奮する、ということを、その事実を理解することは誰でもできると思う。しかしそれに「いやーそうだよね。俺もそう思う」と『共感』できる人は、本当にドラゴンカーセックスで興奮できる感性を持った人だけだ。

もちろん、感性の差が小さい時はその『理解』から『共感』に変化する場合もある。性癖の開発なんて最たるもので、それを考えると理想上はあらゆる『理解』を『共感』にできると思う。

性癖開発等の感性の開発は、広げる変化量が大きいほど、時間と労力が必要になる。それと本気で向き合う気力と時間がなければいけない。これが広げられる変化量に上限を生む。理想上はできる話を、現実的に難しくする。その上限は人によって異なる。全く自分の感性を広げられない人もいるし、様々な感性を理解しようと努力する人もいる。勿論その人の上限も、本人の考え方次第でいくらでも変化する余地がある。ただ、なんであれ、それは簡単にできることとは限らないということ。

またもう一つ現実的問題として、向き合われる側の心的負担だ。共感しようする側と、共感される側の向き合い時、共感される側にとってそれは心的負担を生む。本当に共感されるかもわからない相手に、自分をさらけ出す必要があるからだ。そしてもしも、最終的に共感してもらえなかった場合、完全に「共感不能の怪物」として扱われることが容易に想像できるからだ。分布の端の感性を持った人ほど、その「共感不能の怪物」扱いが、変人扱いが心に響くか、身をもって知っているだろう。『共感できるかもしれないから私に話してみて』というのは『勝てるかもしれないから君の名義で借金して一緒にギャンブルしよう』と言っているようなものだ。一番痛い目を見る可能性があるのは、共感される側だ。共感しようとする側にコストはあってもリスクはない。ここが、よくあるすれ違いポイントだと思う。

共感する側にも負担はもちろんある。新たな感性を理解しようとすることは、結構脳を使う。でも共感する側は、それを途中で降りることにダメージがない。リスクがないのだ。一度始めて「やっぱ辛いからやめた」ができるのと、できないのとでは差が大きい。そして降りられた時にダメージを被るのは共感される側だけだ。ある種生命与奪を握られるような恐怖もあるだろう。

さて、ここまで「どうして共感はコミュニケーションで必ず解消できるとは限らない」ことと話してきたが、次に「どうして共感はコミュニケーションで必ず解消できる」と思っているのかを考える。これは、そう考えてしまわれても仕方ない、という話に落ちる。

特殊じゃない人、つまり分布の中心値付近に存在する人は、生きる上で出会ったほとんどの人と共感できたという経験があるのだと思う。出会った人が自分に近い特性を持っている可能性が高いからだ。感性の差が小さい場合は少しの労力でそれを乗り越えられる。きっと多くの感性の差を、コミュニケーションで乗り越えてきたのだと思う。だから飲み会とかのコミュニケーションが好きなのかもしれない。大きな差に出会った時、その成功体験があだになる。2階から飛び降りても平気だったから3階からも飛び降りようとしてしまうのだ。簡単だ、宙に浮いて足から着地すればいい。衝撃が激しければ転がって衝撃を逃がせばいい、それだけだ。成功体験で得た自分なりのノウハウを片手に、高層ビルから飛び降りようとする。ただ、よりにもよって失敗した際の被害を被るのが共感される側なのだ。

 

そんなこんなで、共感を得ることは難しい、そして共感を強要しようとしてくるのも辛いという話をした。共感の過程で自分をさらけ出す必要があるため、相談自体がリスクを持つという話もなんか流れでしてしまった。まぁそういうことだ。

分布の端側の人の多くは、処世術として成人する前に中心値側の人に擬態する能力がついていると思う。共感を求め相談することは、その擬態を外すことと同義だ。『実は私はあの時助けていただいた鶴なんです』と言って、「は?」と言われてから『あ、今のノーカンで。忘れてください』とはいかないのだ。それまで生きてきて、理解・共感してもらえる可能性の低さ、そして失敗した時に受ける扱いの辛さを身をもって何度も経験しているからこそ、リスクの過大評価にすら繋がりかねない。トラウマってやつだ。そして擬態している人は擬態している分、なおさらその転落は大きく感じるだろう。それがより、相談のリスク計算結果を吊り上げる。

彼らって一体どうやって折り合い付けてるんだろうね。ブログにガーっと書いて発散とかしてるのかね。

最後に、私はBLGTではないし、そういう人達を応援している人でもないです。期待していた方、ごめんね。

なんか鬱々してきたからブログ書きたいけど特に書けない

新型コロナで出歩けないためか、鬱々してきた。

で、ふとした拍子に、過去このブログを書いていたことを思い出して、読み直してみた。

しょーもない内容をしょーもない文章で書いてあるのは大概だが、さすが自分が書いた文章だけあって、共感できるね。テンポやリズムも自分に合ってて良い。本当に当たり前だが。

で、約6か月振りのブログ読みだが、一つ感じたことがある。このブログに書いたことに関しては、本当に自分の中でうじうじしなくなったということだ。

ブログで書いたことは、なんか頭からいい感じに抜けているのがわかる。理由はわからんが、この効能は有用だ。

という訳で、一定量以上自分の中でうじうじ考えたことは書いていこうと思う。

パッと書くこと思いつかないけど、これは沢山書くことが目的ではないのだ。書くことで自分に有用な効果が得られると思った場合に書く、そういうものだ。適当にやってこう。

あと、なんか自分で読み返すと日記めいていて面白い。ネットの海なんてゴミだらけなんだから、俺が少し散らかしたって大丈夫やろ。

飲み会の辛さ ~コミュ症の擬態の限界~

飲み会が辛い。

仲の良い友達同士で飲みに行くのは楽しいけど、主に会社の飲み会とか同期飲みとか、あと5人以上の大きな飲み会や合コンとか、そういうのが辛い。

 

1.会社の飲み会や同期飲みという半強制飲み会が辛い

会社の飲み会とか大学の同期飲みとかにある「俺たち仲良しだよね?!」みたいなものの同調圧力というか、既成事実づくりというか、そういう雰囲気の飲み会が嫌だ。なんか「俺たち仲良しなんだから飲み会来るよね?!」「俺たち仲良しなんだから二次会行くよね?!」みたいなのが辛い。別に仲良しでも他に予定とかあったら飲み会行かないし、眠かったら二次会行かないよ。

物事をするかしないかは優先順位で決まると思うけど、「俺たちは仲良しだから、俺たちの飲み会(二次会)は他のあらゆる予定よりも優先順位が高いんだよな?!」ということなのかもしれない。でも断った時の反応を見る限り、そういう考えすら感じないのも嫌なところだ。断れたことに対して「あいつは俺たちよりも重要な予定があったんだな」というより、「あいつは俺たちと仲良くする気がないんだな」という反応をする。物事をイチゼロで判断する反応だ。例えば飲み会の優先度が60%で、家でゲームしたい優先度が70%だったら、それはゲームを優先する。でも飲み会の優先度は60%もあるのだ。行く気がないわけじゃない。それに対し、断れた側は「飲み会の優先度は0%だったに違いない」というような反応をする。ここは断るときのコミュニケーションの問題もあるけど、正直ゲームの優先度の付け方と、飲み会の優先度の付け方は価値観の相違があるので、どうしようもないところもある。というか多くの人って飲み会の予定の優先度高くね??とりあえず、「飲み会(二次会)断ったからあいつは仲良しになる気がない」みたいな相手の事情を全く考えない人たちの飲み会の誘いがだるい。相手の事情なんて考えない方が楽なんだから、そりゃ考えない人がいるのもわかるのだけど。

こういう時の飲み会で途中に帰る疎外感というか、なんとも言えない社会不適合者の烙印を押さえれたような気分になるのが特に辛くなる。実際そうなのだからそりゃ現実を知れって感じかもしれないけど。みんなどうしてあんなにも飲み会が好きなのだろう。もしかしたら多くの人にとって、飲み会はゲームとかスポーツとか映画とか読書とか芸術鑑賞とかお笑いとか美食とか趣味以上に面白い娯楽なのかもしれない。飲み会だって高いし、それに相応する価値があると感じているはずだ。だとしたらそれを楽しめない自分が損な感性なのかもしれない。感性は人それぞれだ。例えばクラシックのすばらしさを感じる人と、それが全く分からない人がいる。どちらが良いとか悪いとかはないが、少なくとも楽しいと思えることが多いほうが人生得だろう。そうだとすれば増々自分は周りから価値観がずれており、社会不適合性が上がっていることを認めなければいけなくなる。

 

2.5人以上の多人数飲み会が辛い

5人以上の飲み会や合コンとかは、その最中が辛い。どう振舞えばいいのかがよくわからない。

5人以上になると、必ず全員が話題に参加することや発言することができなくなる。そりゃ5人以上が次々に話したら滅茶苦茶だ。だから思うことがあっても、会話の流れに乗れないと発言できない。あれはタイミングよく発言できる人のみが発言できる空間になる。コミュ障には発言のチャンスが掴めなくて辛い。

そして多人数ゆえの共感というか、多数決的同調圧力がある。ある人の発言に対して、全員はある同じ反応をすることが期待される。どんな反応をするべきかは、相手の話し方からわかる。実際みんなはその反応をして、実際そう思っているように見える。自分もそういう反応をするように努める。それでもやっぱり違うと思う時もある。反論したくなる気持ちがあるときがある。誰かの悪口が言われているときなんか特にそうだ。勿論それはただの愚痴で、ガス抜きで、発言者はそれに対して周りから「そうだよね~」という共感をもらってメンタルを回復する、という流れなんだから、そこは共感するべきなんだと思う。でも、あまりにも悪口を言われている側が不憫だったり、フォローされるに値する状況の時は、本当に辛い。同調して悪口を言わなければいけないようなのが辛い。4人以下の少人数の飲み会なら、発言の機会も取りやすいので、共感しつつ相手をフォローするコミュニケーションが取れる。相手の言葉と気持ちに対して一つ一つ、丁寧にキャッチボールできる。でも多人数の飲み会では発言の機会が取りづらく、発言者との直接のキャッチボールが難しくてそんなことはできない。相手の共感を壊してしまい、誰も得しない展開になるか、自分もその悪口に加担するような罪悪感に苛まれるだけだ。

多人数飲み会で話しやすくするように、テーブル内でグループに別れて会話することもある。というか自然にそうなることがある。そうなると少しは話しやすい。でもやっぱり多人数の飲み会では「みんなで一緒に話す」という雰囲気があって、ある程度全体一個の話題に戻ろう動きがある。グループ別での会話がいつも長続きするとは限らない。そして最初はどうしてもグループ別に分かれるまでに時間がかかる。

 

3.まとめ的な

結局自分が飲み会が辛いのは、感性が多数派からずれているからなのかもしれない。不特定多数との飲み会がそんなにも面白いものに感じないし、話題に関して共感できないことも多い。確かに仲の良い、価値観や考え方の近い友達と集まって飲み食いするのは楽しい。大体飲み会が目的ではなく、まず必ず美食や美酒や遊びの帰りの夕飯のついでとかが多いのが実際だが(やはり感性が近いもの同士、飲み会単一そのものに対する価値が低いのかもしれない)。

これから自分がどうして行けばいいのか、を考えるとやっぱり金を払ってまで共感できない話題についていって自分の思った事も言えないような飲み会に参加するのは嫌だ。それで周りから「あいつは周りと仲良くなる気がない」と思われるのも癪だが、それはスポーツとかゲームに誘うとか、飲み会以外の交流をすればいいのかもしれない。でもみんなってそういう交流には参加したがらないんだよなぁ。やっぱり優先順位の付け方が違うのかもしれない。4000円払って席に座ってアルコールとおつまみを適当に飲み食いするより、もう少しお金払っても何かを体験する方がよっぽど楽しいと思うんだけどなぁ。

自信は公理

「自信がない」という人がいる。

「自身がある人は、どうしてあんなにも自信満々なのかがわからない」という人もいる。

気持ちはわかる。しかし自分は一つの答えを持っている。

自信とは公理だ。

定理ではない。厳密には定理も公理になるが、必ずしも定理である必要はない

なお、公理とは、「その他の命題を導きだすための前提として導入される最も基本的な仮定のことである。」(wikipedia引用)。定理とは、「数理論理学および数学において、証明された真なる命題をいう。 」(wikipedia引用)

定理とは何かしらによって証明されたものだ。

一方、公理とは前提として仮定したもの、決定したものだ。証明されたものとは限らない。

自信とは公理なのだ。

自信がない人は、自信がある理由を探す。もしくは自信がない理由を探す。自信を証明したがる。

「これこれこういう理由で合っている可能性が高い」とか、逆に「これこれこういう理由で100%合っている保証はできない」とか「極低確率だがこのような反例がありうる」とか。

理由や根拠、証拠があって保証されるもの・証明されるものは定理のグループだ。どのような議論があろうと、理由・根拠・証拠を元に構築されたそれは定理であり、そして単なる客観的事実、もしくは確率分布だ。

勿論定理は公理になりうる。自信の証明は理論上可能だ。

しかし、現実世界での絶対の証明は事実上不可能で、どこかに最初の仮定(公理)が必要になる。マトリックスではないが、我々が見て聞いて感じていることがすべて脳の勘違いである可能性を捨てきれない。「自分の眼で見て聞いていている(と脳が考えている)ことは真実である」という仮定が必要だ。

ただそこまで言わなくとも、多くの人が持つ自信の多くは、結局根拠もない公理だと思う。

繰り返しだが、公理は仮定であり、仮定は決定するものであって、証明されるとは限らない。(仮定の正しさを証明する議論もあるが、仮定を決定した後の議論では仮定の証明は不要だ。)

例えば、他人の自信に一つ一つ反論し、反例を上げ、そうではない確率を計算することは可能だろう。しかしその人は納得しないだろう。なぜならその人はそれを「そういうもの」として、もう仮定しているからだ。自信としてその人はそれを公理にしており、どんな事実を提示されても、「それはそれとして」流されてしまうのだ。最初に「それをそういうもの」と仮定して決定されているので、そこから先の議論に仮定の正しさは論点に入らないのだ。

 

自信がない人は、自分でそれを公理にしてみてほしい。正しいかどうかはさておき、証明可能かどうかはさておき、仮定して決定してみてほしい。

それが自信だ。

ただ、「決定」には「責任」が付きまとうので、そこのリスクマネジメントだけは必要だ。

もしかしたら、自信がないのはリスクの過大評価、もしくは自信によって得られるリターンの過小評価かもしれない。

なお、この文章は単語の意味の端々で数学者達を怒らせている可能性がある。そこは申し訳ない。ただ、非難されるかどうかの不安というものは、根拠のない自信というものでかき消されている。

ブログを書いてみて思った事 脳のバックグラウンドプログラムの停止

ブログを書いてみて一週間ぐらいになる。

ブログを書いてみて思った事があるので書いてみようと思った。

ブログでは自分がくよくよ思っていること、考えていることを書いてみている。

そこで思ったのだが、ブログで書いてからは、その内容のことを考える頻度が明らかに減ったのだ。

書く過程ですっきりしたり、飽きた可能性もあるが、なんであれごにょごにょ考えていることを考えなくなり、とても頭がすっきりしている感じになった。

感覚的には、PCのバックグラウンドで動いているプログラムのような、脳の無意識の部分で動いている心的作用が止まっている感じだ。使えるCPUの領域が増えているように感じる。

これは結構な恩恵だ。大体それらはネガティブがことが多かったので、ネガティブなバックグラウンドプログラムがなくなって、脳の思考回路の負担も減り、メンタルの負担も減ったような気がする。

というわけで、思考の吐け口的にこれからも適当に書いてみようと思う。

昔はネットでこういうのを「チラシの裏」といったらしいが、別にネットの海なんて広いんだし、効能があるのであればコスト対効果としては元が取れるだろうと思う。

常識人に絶望した変人

自分は変人だった。

自分は変だと言われて育った。

小学生の頃から、親から「あなたは変だ」「そんなこと考えない」「そうは思わない」と言われて育った。「常識がない」「普通考えれば当たり前なのに」「そんなこともわからないのか」と言われて育った。

だから自分は普通の人になろうと思った。中学一年生の頃の自分の目標は「平均的人間」になることだった。

何が常識なのか、何が普通なのか、何が当たり前なのか。

自称「常識人」の行動を観察し、何が普通で常識なのかをつぶさに勉強した。一つ一つ考えて常識を理解しようとした。

高校生の頃にはそれがかなり明瞭にわかってきていた。だから日常は楽しかった。

高校生の頃に徐々にわかってきていたが、常識とは多数派のプロトタイプと、それに伴う思考の短縮だ。

プロトタイプとは真っ先に思いつくものだ。「鳥」と言われてパッと想像するのが「鳩」の人は、鳥のプロトタイプが鳩だ。プロトタイプは人によって異なる。「鳥」と言われてパッと想像するのが「始祖鳥」でも、それは鳥なのだから何の間違いもない。

しかし「鳥の絵を描いてください」とだけ言われて、100人中99人が鳩の絵を描く中、一人だけ始祖鳥の絵を描いていたら、それは「変」なのだ。間違いではないのに。また、指示した側が「鳩等の鳥を限定していたつもりだが、思考の短縮により『鳥』という単語を使った」場合はひどいことになる。なぜそんなものを書いたのか?となる。もちろんコミュニケーションはプロトタイプが近い人同士の方が楽なのは間違いない。だからこそコミュニケーションが取りづらいプロトタイプが異なる人間に排他的になるのかもしれない。

大事なことは、「常識とは多数派のプロトタイプに過ぎず、正しいか間違っているかは一切関係がない」ということだ

さて、ここで大学時代にあることに気づいてしまうのだ。

どうしてみんなそんなに怠けるのだ?なぜ宿題をしない?なぜ講義をさぼる?なぜ部活動の練習を真面目にやらない?なぜ人に嘘をつく?なぜ人を笑いものにする?なぜ生活リズムを壊してまで酒を飲む?それらは良い行いなのか??

世の中は真面目じゃない人が大半だ。宿題のプロトタイプは「やらない」なのだ。自分で選んで入学した大学なのに、講義をサボってバイトをするのが「当たり前」なのだ。

そういった彼らに「変人」と蔑まれると、どうだろう。彼らは多数派であるだけで、優れている訳でも、正しいわけでもない。ましてや物事の本質を捉えようと思考した上で行動を選択している訳でもない。何か遂行な理想があって行動している訳でもない。プロトタイプのまま、非常に直感的なのだ。

社会人になった後でもそれは変わらない。ルールを違反するどころか、そもそもルールを知ろうともしないのに、逆にルールを守る人を「お堅い」「冷たい」「人間的じゃない」とか蔑む。そう思うなら、そんなルールを撤回するように行動するのが正当だろうに。短絡的に個人に当たる。

攻殻機動隊の言葉だが、「水は低きに流れるように、人の心も低きに流れる」。常識という言葉は、思考せず短絡的に行動できるという怠惰を、低く流れられる環境を、構築してしまっている気がする。

しかし、人間社会は人間により運営される。より多くの人を幸せにすることが社会の役割であるならば、多数派である自称常識人達を幸せにすることが人間社会の目標とも言える。しかし、そのように不真面目で、正しくあろうともしない人々を幸せにしようとし、それとは無関係に真面目で正しくあろうとする人が笑いものにされる世界が正とされるのであれば、絶望しか感じない。いつか遠い未来でも良いから、誠実で、人にも本人にも優しく、思慮深い人間が常識人にはならないだろうか。